本当に求めてるものとは・・・

今日はボディワークに行ってきた。

 

相変わらず意味の分からない動きだが、自分のいつも動いてない背骨を意識できたのはよかった。

 

そのあと、初対面の人と飲みに行くことができたのもよかった。

 

自分でも人を誘えるのかと、そしてついてきて少し面白い話が聞けるのかと感じて少し世界が開けた気がする。

 

思えば、試験に落ちその後の恋活でも失敗し、自分が制御できていない(邪魔な)無意識というものに興味を持った。

 

それは自分の気持ちを知るということで同時に相手の気持ちを知る(察する)ことにもつながる。

 

そして、自分は気持ちを抑圧していたんだなということに気付いた。

 

いろいろ抑圧したが、今わかるものとしては恋愛経験がないことへの焦り(恋愛体験への憧れ)、一人でいることの寂しさ、嫌いな人を嫌いと感じることなどがある。

 

なぜ抑圧しなければならなかったのか。

 

それは人付き合いへの怖さ、精神的な安定の希求、だろうか。

 

そして自分の気持ちがわからなくなる不安をも抑圧することで、抑圧が進み感情の麻痺がおこり、見た目上は精神の安定を得た。

 

でもそれは感情にふたをしただけで、感情はいつかあふれるだろう。

 

そしてその感情に相対した自分は狼狽え必死でふたで抑え込み、失敗し、消耗する。

 

場合によっては精神の均衡を崩すだろう。

 

崩さなくとも救いのない地獄のような日々が続くかもしれない。

 

人付き合いが怖いのはなぜか。

 

それは小学校4年生?のころに息がくさいと言われたことがかなり大きいだろう。

 

それ以降人と話をするのが怖くなってしまった。

 

原因は鼻づまりによる口呼吸で、今は鼻の手術をしてよくなったはずだ。

 

なんだかんだ人付き合いはしていたが、積極的にいけないという感じだった。

 

こんな風に考えるのは試験に落ちてからだ。

 

感謝はしてないけど、得るものもあったという点で不幸中の幸いということにしよう。

 

自分が本当に求めていることは、自分が抑圧していることの中にある。

 

今はそれに気付き、拾い、満たしてやる。

 

それしかないし、それができるなら自分が年齢としては大人といえるが、中身はまだ子供だという意識がなくなるかもしれない。

 

ファイトクラブの主人公が言っていた「僕は30を過ぎてもまだ子供だ」というセリフは印象に残った。

 

このままいけばそのセリフを自分が吐くのは明白だからだ。

 

こうなったのは親の影響もあるだろう。

 

規範意識の強い、あるいは世間のきれいごと的な判断基準を疑うことなく受けうれている父親が嫌いだった。(今でも)

 

しかし、自分も大枠は規範的な人生を歩んでいる。

 

その中でも特にはみ出してない。

 

なんとなく一流メーカーなら信頼できる、聞いたことのないメーカーならバカにするということを当たり前のようにやっていた。

 

自分が聞いたことのない会社や人を見くびるのはおそらくこれが原因ではないか。

 

父親の中にはピラミットがあり、それに従って生きていた。(今も)

 

本当にやりたいことはなく、健康にいいから、資産形成になるから、ハイソだから、義務だからという感じで水泳したりマンション買ったりワイン飲んだり親の見舞いをしたりしてるように見える。

 

それが嫌だった。人間的でないと思った。

 

でも、その後ろ姿が脳裏に焼き付いていて、結局自分もやりたいことを抑え、やらなきゃいけないと思い込んだことをやってたんじゃないか?

 

親に反発するのはフリで、親の道筋をなぞってる・・・

 

ただ、それを認識すれば抜け出せるはず。

 

それが希望だ。

 

この際だから母親のことも書いてみよう。

 

もう死んでしまったけど、美人でやさしかった気がする。

 

ただ、やさしさも節度がないと子供をダメにする。

 

中学受験などそうで、勝手に願書を出して、自分はそこだけ受かった。

 

本来受験に失敗して公立の中学に行くはずだったのに、失敗したという感覚がないまま中学に進んだ。

 

というか何とかなってしまうと思い、自分の人生に対する意識・自覚がおろそかになった。

 

はっきり言って中学・高校はよく覚えていない。

 

ヴォイド、虚ろというといいすぎだが、騒いで笑っていても心には響いてなかった。

 

他人とも心は触れ合えていなかった。

 

そして、今度は大学受験で志望校に全部落ち、浪人する。

 

この7年間を無駄に過ごしたという後悔、悔しさなどがあったのだろうか。

 

大学では本来の能力主義も加わり、テニスなり会話術なり読書なりにまい進し、自分を磨き過去に失ったものを取り戻そうとした。

 

つまり、世間一般から見て普通かそれ以上になったんじゃないかということだ。

 

普通の人は体育会の部活には入らないし入ってもやめる、普通の人はこんなに人を笑わせられない、普通の人はこんなに本を読まない、こんな本を読まない・・・

 

など、いったい誰に対して見せつけているのか。

 

たぶんそうしないと人に接するのが、生きるのが不安だったのだろう。

 

感情にふたをしていたわけだが、そのふただったというわけだ。

 

それは入社後も続いた。

 

資格試験、仕事への(いやいやながらの)頑張り、読書。

 

やっていることは同じで対象が変わっただけ。

 

自分を磨いてそれで感情にふたをする。

 

特に資格試験には懸けた。

 

クリスマスにカップルの多いファミレスで勉強するのは辛かった。

 

同期は土日女の子と泊まりに行っているのに、自分は勉強。

 

プライベートの意識の大半は勉強にいき、プライベートの良しあしの判断基準はどれだけ勉強できたか、成果が上がったかだった。

 

そこまでかけた資格試験に落ちた。

 

人生から×を突き出されたような気がした。

 

人生の方向自体が間違っていた。

 

実は変だなとは思っていた。

 

勉強しようと思っているのに体が拒否する。

 

ページが開けない。

 

一時間休憩してもそれが変わらない。

 

実はあまり勉強できてないのは感じていた。

 

拘束時間は長かったが・・・

 

でも、気にしない。

 

勉強だけに意識を向けていれば受かるはず。

 

今までもそうだったから。

 

でも今までは今まで、で今とは違った。

 

で、冒頭の無意識に興味を持ったくだりに戻る。

 

これまでの人生を軽く総括してしまったような気がするが、心の中から吐き出せてよかったかもしれない。

 

文字にすることで、自分を客観的に見れて前に進むことができればと思う。